(GLO) - おそらく誰もが、他の人と白熱した議論に参加したことがあるでしょう。そうした議論では、誰もが自分の意見を守ろうとし、誰も譲りませんでした。
人生で議論が絶えないのは、誰もが明確な個人的な視点を持っているからです。個人的な視点とは、問題、人、出来事などを、私たち自身の視点から考え、評価する方法です。個人的な視点は主観的なものなので、正しい/間違っていると断言することはできません。コミュニケーションの状況に応じて、それぞれの人の個人的な視点が適切か不適切かを判断することができます。個人的な視点は思考、つまり考え方に属するものであり、そのため、主観的な考え方から、極端な視点、ひいては偏見を生み出す人もいます。
偏見について言えば、社会学者の観点からは様々な解釈があります。しかし、共通点の一つは、偏見はしばしば好ましくない考え方や意見に関連しているということです。これらは、性別、職業、社会的関係、年齢、宗教、人種、言語、国籍、外見、その他の個人的特徴について、個人または集団に対して主観的に評価されるものです。
ホアン・ペ編纂のベトナム語辞典によると、「偏見とは、既に定着していて変えるのが難しい個人的な意見のことである」とされています。時代を遡ると、特に封建社会においては、多くの偏見が長きにわたって存在してきたことがわかります。例えば、男尊女卑の思想、階級差別、夫婦関係に関する偏見などです。
4.0時代にも関わらず、何百年も前の考え方を家庭生活に押し付ける家父長制の男性がまだいるというのは、受け入れがたいことです。出産、子育て、両親のサポート、料理、洗濯…家事全般は女性の仕事だという考えです。女性は依然として生活費を稼ぐために働きに行かなければなりません。男性はといえば、勤務時間外は自由にスポーツをしたり、友人と集まったり、家に帰ったら足を上げて横になり、スマホをいじったり、夕食を待つ間テレビを見たりすることができます。ますます多くの女性が、精神的な助けを求めて結婚・家族カウンセリングセンターに通っています。毎日、どこでも、男女平等やフェミニズムなどについて、多くの美しい言葉を耳にするようになりましたが、何千年も前から存在してきた保守的なジェンダーステレオタイプが本当に排除されたのかどうかについては、まだ十分に議論される必要があります。
あるいは、LGBTコミュニティ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの略称)に対する社会の理解が深まるまでには長い時間がかかったという事実もそうです。かつては、性差の問題を抱えた子どもを見ると、親はほぼ即座に子どもとの接触やコミュニケーションを禁じていました。多くの人にとって、LGBTは「病的な」存在であり、そのような子どもを持つことを恥ずかしく思う親も少なくありませんでした。しかし、社会が発展するにつれて、様々な情報源を通して人々の見方も変化しました。
2022年8月3日、 保健省は公式文書第4132/BYT-PC号を発行し、「同性愛は病気ではなく、治療の必要はない」と明言しました。これにより、ジェンダー問題を抱える人々に対する偏見は緩和されたと言えるでしょう。
人は皆、個性を持っています。古人は「九人十意見」という言葉を使い、それぞれの視点について語りました。どんな社会にも、時代を何百年も先取りする、非常に進歩的な考えを持つ人がいます。一方で、時代遅れで鈍重な考え方のために、常に歴史の流れを阻害していると感じている人もいます。もちろん、誰かの考えを他人の人生に押し付けることはできません。思考はマンネリのようなもので、人は一度見つけたマンネリを繰り返すだけで、新しい方向性を見出すことは滅多にないからです。長年にわたり根付いた概念が社会的な偏見となってしまったこともあります。それらの偏見を変えられるかどうかは、一人ひとりの考え方次第です。ですから、保守的な考えに囚われて、これから待ち受ける良いものを見逃さないでください。
[広告2]
ソースリンク
コメント (0)