
クアンナム新聞の創刊28年のうち、私は幸運にも6年間、この新聞社に携わることができました。しかし、実際には、それよりもずっと長い間、この新聞社と関わってきました。
9歳か10歳の頃、穏やかな夏の午後、父が故郷の新聞を熱心に読んでいるのを見て、私は好奇心と不思議さを抱きました。幼い頃、父にどんな興味深いニュースを読んであげたのかははっきりと覚えていませんが、漠然とした願いが心に燃えていました。
それから15年後、私の最初の記事がクアンナム新聞に掲載されました。どれだけ時間がかかっても、あの日の喜びは今も忘れられません。数千キロ離れた南部の都市で、故郷の新聞に自分の文章が掲載されるのを見て、高揚感に包まれながら、まるで故郷に帰ってきたかのような気持ちでした。
遠い故郷で、親戚、恋人、知人、皆が私を「見ていた」ことを知っている。名前を見るのは人に会うのと同じで、新聞を読むのは故郷に会うのと同じだ。クアンナム新聞は、懐かしさの二つの岸を結ぶ架け橋であり、昔の思い出を抱きしめる場所であり、故郷の変化を一歩一歩追いかける場所であり、故郷を遠く離れた人々の心に揺るぎない信念となる。
編集部の皆さんが記事の写真を送ってくれたり、記事の書き方、テーマや内容の選び方などについて、考えやアドバイスをくれたりするのは、本当に大切な時間です。深夜のテキストメッセージだったり、メールでのやり取りだったり、直接会って話したり。そうした信頼関係はすべて、愛に満ちています。
そして帰国したその日、協力者とのミーティングに出席する機会に恵まれ、夢を追い求める子供のぎこちない文章を支えてくれた多くの編集スタッフと直接会うことができました。ミーティングはとても和やかで、まるで家族の一員になったような気分でした。分かち合い、励まし合い、そして真摯なコメントを聞くことができました。笑い合い、冗談を言い合い、率直に語り合い、そしてなんと…プレゼントをラッピングしてもらって持ち帰ることもできました。
その日、副編集長のグエン・フー・ドン氏が私の肩を軽く叩きながら、奇妙でありながらもどこか懐かしい言葉を口にした。それは、ある種の疑念だった。3文目を読んだとき、私は驚きに震えた。なんとも驚きだ!そして、恥ずかしさのあまり、すぐにその言葉を隠した。私は自分の「創作」さえ忘れていたのに、彼は小さな記事の中のくだらない一文まで覚えていたのだ。その時初めて、私はジャーナリスト、名門編集局の「審査員」の心を知った。自分の名前と言葉を覚えていてくれたという喜びとともに、深い感動と感謝の気持ちが湧き上がった。それは、私の苦難に満ちた文学の旅の中で、永遠に最も美しい思い出の一つとして記憶されるだろう。
まだ強く残っていた愛の真っ只中に、別れは突風のように、激しく、そして決定的に訪れた。新聞への別れだけでなく、輝かしい人生、全身全霊を捧げた愛の時代への別れでもあった。残った者も去った者も、共に深い失望を味わった。しかし、皆が互いに別れを受け入れようと言い合った。共に過ごした素敵な出来事、共に歩んできた道のりは、互いにとって永遠の思い出となるだろう。
ずっとそこにあった愛と、長い間準備してきたことのせいで、別れの言葉は落ち葉のように軽やかに聞こえる。なのに、どうしてこんなにも未完の想いで心が重くなっているのだろう?枝や幹が痛みや後悔を感じずに落ち葉が落ちるなんて。まあ、このままにしておこう…
誰もが理解しているように、どんな風が吹こうとも、葉は根っこに戻り、新たな命の再生の日を待ち続ける。今日別れを告げることは、明日、かつてどれほど恋しがったあの場所で再び会うことを意味する。
出典: https://baoquangnam.vn/nhu-chiec-la-roi-3199967.html
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