突然、バックパック旅行がしたくなった。一人で。鳥のようにさまよう。だからバックパックを肩に担ぎ、鉄の馬に乗り、騒々しい街を抜け出し、屋上の混雑した空間から抜け出した…
郊外には廃墟が数多くあり、道端の草地はまるで絵画のように美しい。通り過ぎるたびにスマホを取り出して撮影する。三脚にスマホを固定し、レンズを太陽に向け、静かに待つだけ。すると、美しい夕焼けの映像が生まれる。私はというと、草の上に寝転がり、夕日を眺める。あの広大な空では、毎日太陽が昇り降りする。しかし、都会にいると、夕日を眺めることはできない。まるで屋根が夕日を飲み込み、箱に閉じ込めて、一人で眺めているような気分だ。
黄色に染まった田んぼの中を歩き回った。大地の恵みでふっくらと実った稲の花は、今や互いの膝を曲げ、波のように重なり合っている。稲の波。自撮り棒を高く掲げ、早朝の田んぼの風景を撮影した。稲の花は露に濡れ、夜明けを迎えるように嬉しそうにキラキラと輝いていた。陽光が稲粒を濃く染め、露が晴れると辺り一面が鮮やかな黄色に染まり、どれが陽光の黄色でどれが稲の黄色なのか、区別がつかなくなった。田んぼの芳しい香りを深く吸い込んだ。裸足で頭もかぶらず、自分の何倍もの大きさの牛を草を求めて連れて行った時にも、あの香りが私を包んでいた。裸足で草の上を歩いたのは、一体何年ぶりだろう。時間が投げかけるその問いに、私は答えることができなかった。木の根元にサンダルを投げ捨て、濡れた草の上を裸足で嬉しそうに歩いた。柔らかく、優しく撫でるような。私の子供時代、ああ、私の子供時代、私は過去の思い出に浸るためにここに戻ってきたのです…
夏は蓮の開花の季節。蓮の香りが空気中に漂う。それは優しく、しかしローレルの香りほど強くはない。草の上に横たわり、腕に頭を預け、足を組み、目を半分閉じ、涼しい蓮の香りと野原の爽やかな香りを楽しみながら、私はなんて幸せだろうと心の中で思う。人生は短い。今日を生きて、明日死ぬ。幸せな瞬間を一つ一つ楽しみ、心配して心を苦しめてはいけない。昼はぐっすり眠り、目が覚めたら釣り竿を置きなさい。午後は枯れ枝で火を起こし、釣ったばかりの魚を焼く。かすかな煙がしばらく漂い、そして消えていく。
子供の頃、畑で牛を追うたびにサツマイモを盗んで焼いたことを覚えています。息を吹きかけて食べたのですが、口の中が焼けるほど熱かったのですが、それでも私たちは心から楽しく笑っていました。あの頃は、あの煙はどこへ行くのだろうと不思議に思っていました。そして皆で、その煙が空に昇ってあの黒い雲になり、そして雨が降るのだ、と口を揃えて言いました。今の子供で、雲は水蒸気の凝結によってできるものだと知らない人がいるでしょうか?今の子供たちは、私たちよりもずっと多くのものを持っています。より良い環境、より多くの物質的な物があります。ただ、あの頃のような「壮絶な子供時代」を過ごしていないだけです…。
私は子供の頃を思い出した。暑い夏の夜、涼をとるために竹のベッドにゴザを敷いて眠ったことを思い出した。薄いゴザを持ってきて、木の枝に蚊帳を結びつけ、その夜は野原で眠った。夏の夜、涼しい風が吹き、蓮の香りは夜が更けるにつれて一層香るようになり、カエルの鳴き声が聞こえた。これらすべてが私を眠りに誘った。子どもたちは野原の端から切った葦で剣を作り、剣劇映画のように「チーズ、チーズ」と叫びながら、模擬戦ごっこをしていた。疲れると、草の上を転がり、息を切らして横たわり、テオがズボンを破ったので大声で笑った。そこで私たちは新郎新婦ごっこをしていた。女の子たちは野原の端からタンポポを摘み、それを編んで美しい黄色の花輪を作った。そして、最もハンサムで美しい子どもたちが新郎新婦に選ばれた。また、花嫁は「バンバン」と爆竹で迎えられ、「新郎新婦は花瓶を割って、子供たちのせいにして、お尻を叩かれた」という童謡が大声で歌われ、新郎新婦は激怒して追いかけました。目が覚めても、子供の頃のいたずらを思い出してまだ笑っていました。田舎の友達は今頃何をしているんだろう、まだ子供の頃のことを覚えているのだろうか、と不思議に思いました。
夏が始まったばかりで、郊外の魅力的な場所を散策する時間はまだたっぷりあります。まるで子供に戻ったような、何の心配もなくのびのびと暮らしているような気分です。生徒たちに真面目な印象を与え続けなければならない教師であることを、もう忘れています。目標や競争のプレッシャーもなくなりました。ただ一人でぶらぶら歩き回り、新鮮な空気を自由に吸い込み、夕日を眺め、月明かりに心を許す喜びだけがあります。
夏の一人旅、素敵なドライブ旅行!
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