1978年初頭、ポル・ポト派の兵士たちはベトナム国境の奥深くまで無謀にも侵攻し、第4師団が駐屯していたアンザン省バイヌイ地区を含む我が国民に対し、残虐な犯罪行為を繰り返しました。師団の将兵たちは不屈の精神で彼らの攻撃を撃退しました。勇敢に戦った多くの団体や個人は、部隊内で広く知られるようになりました。師団が主催した、部隊内で優れた戦功を挙げた兵士たちにポル・ポト軍との戦いを語る会で、私はいくつかの典型的な事例を記録しました。宣伝部の将校たちに励まされ、私は毎日、夜を徹して検問所で師団本部を守るため勤務する政治仲間たちと交戦した後、時間をかけていくつかの戦闘事例を書き上げ、人民軍新聞に大胆に送りました。

イラスト写真:qdnd.vn

ある日の午後、兄弟たちと野菜を植えていると、宣伝部長が嬉しそうに「今日、人民軍新聞に君の記事が掲載されたよ!」と告げました。それを聞いた私は急いで事務所に戻り、人民軍新聞を探しました。すると、一面の「国境を守るための戦い」欄に、ポル・ポト軍との勇敢な戦いを指揮した第20連隊のレ・シュアン・ナム小隊長について書いた「戦闘の最後の数時間」という記事が載っていました。嬉しくて何度も読み返しましたが、記事はほぼそのまま掲載されていました。嬉しくて、会う人会う人に自慢してしまいました。それから半月後、人民軍新聞の同じ欄の一面に、私の記事「銃撃者と薬袋」が掲載されました。これは、 キエンザン省国境で敵の銃火の中、勇敢に負傷兵を治療し、仲間と共に幾度となく敵の反撃を撃退した兵士であり看護師でもあるグエン・ヴァン・フン氏について書かれたものです。それ以来、私は宣伝部長から師団の勝利ニュースレターの執筆者として任命されました。

新たな任務を与えられたことは、大変ではありましたが、情熱に満ち溢れていました。部隊へニュース記事を書くために赴くたびに、私の荷物はバックパック、AK47、そして手榴弾2個でした。バス、船、徒歩など、様々な手段を使って部隊から部隊へと移動しました。ニュース担当の同志の指示に従って、現場へ赴き、記事を書きました。部隊での日々、戦場での戦友たちの苦難、困難、犠牲を目の当たりにし、私の責任感はさらに強くなりました。

1978年8月末、私は北朝鮮へ留学させられました。北朝鮮での軍歴、そして民間人としてのキャリアを通して、ジャーナリストとしての第一歩を踏み出した日々、そして南西国境地帯の第4師団で兵士としてニュース記事を執筆した日々は、今も私の中に鮮明に残っています。ジャーナリストの道を歩むよう私を導き、支えてくださった第9軍区新聞、第4師団宣伝部長、そして人民軍新聞には、心から感謝しています。ジャーナリストとしての責務、特に西北兵士新聞(第2軍区)の記者、ハトゥエン戦線の記者、そして後に第2軍区新聞編集長として勤務した日々は、困難で骨身を惜しまず、時には危険を伴うものでしたが、私の決意は深まり、戦友たちから、あらゆるレベルの指導者や指揮官の姿勢、そして塹壕で共に戦う愛すべき兵士たちに至るまで、多くのことを学びました。

    出典: https://www.qdnd.vn/van-hoa/doi-song/noi-diu-dat-den-con-duong-lam-bao-882645