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8月がやってきました。繊細な変化の月です。空は7月のような突然の豪雨も徐々に収まり、太陽はもはや赤い夏の日ほど明るくありません。風はもはや暑く蒸し暑くはなく、むしろ少し冷たく、まるで誰かの手が偶然髪を撫でたかのような軽やかさを運んできました。葉はまだ緑ですが、中には色づき始めているものもあり、まるでこれから何が起こるかを知っているかのように静かに散っていきます。なぜか秋が来るたびに、私は不思議な興奮を覚えます。春ほど騒々しくなく、夏ほど情熱的でもなく、冬ほど陰鬱でもなく、秋は魂が成熟する季節です。懐かしさを知るには歳を取り、まだ夢を見るには若々しい。そして8月は、秋の最初の挨拶です。
8月は「中間の月」だと聞いたことがあります。灼熱の暑さと、熱いコーヒーが飲みたくなるほどの涼しさの間。しとしとと降る霧雨と、その隙間を少しずつ埋めていく穏やかな秋の陽射しの間。名状しがたい悩みと、夏のやり残した仕事の間。8月は、まだ喧騒を忘れず、静寂に浸りきれていない月です。このまま進むべきか、それとももう一度振り返るべきか、私たちの心は境界線に立っているかのように揺れ動きます。
私にとって秋は、いつも小さな出来事と結びついています。冷たい水で顔を洗い、肌が少し痺れて冷たく感じる朝。洗濯物を干し終え、日差しはもう強くないけれど、洗いたての服の香りがまだ十分に漂っている頃。仕事に出かけ、見慣れた並木道を通り過ぎると、何枚かの葉が音もなく、何の前触れもなく、ただ枝に留まっていた期間が終わっただけで、突然落ちていくのを見る時。こうした小さな出来事が積み重なって、秋ならではの優しい気持ちが生まれます。
幼い頃、8月になると母はいつもこう言っていました。「この月は薄着を片付ける季節の準備月よ。長袖のシャツを取り出して、きちんとアイロンをかけなさいよ、子供よ」。当時はただ聞くだけで、注意を払っていませんでした。でも今は分かります。母は寒さを恐れていたわけではなく、来るべきことのために早めに備える習慣があったのです。まるでこの人生もまた、次の旅に出る前にアイロンをかけなければならないかのように。私も少しはそういう習慣を身につけました。8月になると、ふと家の掃除をしたり、窓枠を拭いたり、古い服を畳んだりしたくなります。時には理由もなく、ただやりたいから。もしかしたら、それも人それぞれに「季節を迎える」とても個人的な方法なのかもしれません。
友人が「秋が来るたびにどうして悲しい気持ちになるの? 理由はわからないけど」と聞いてきました。すぐには答えられませんでした。というのも、私もかつて同じように感じていたからです。秋は人を悲しくさせるのではなく、ただペースを落とし、耳を澄ませ、そして十分に沈黙することで、私たちは思い出し始めるのです。忘れていたことを思い出す。学生時代の純愛を思い出す。毎日通っていた古い道を思い出す。長い間会っていない親戚を思い出す。そして時々、日記を書いて、心から愛すれば愛されると信じていた、世間知らずで夢見がちな昔の自分を思い出す。こうした記憶は鮮明である必要はなく、適切な季節が訪れるだけで、自然と蘇ってくるのです。
秋の日はお茶を飲むのが好きです。ミルクティーでもレモンティーでも、何か凝ったものじゃなくて、ただただ温かいお茶を一杯。ポーチに座り、淡い黄色の陽光がブーゲンビリアの棚に横向きに落ちるのを眺めながら、一口ずつすすります。お茶は香りは強くありませんが、心が穏やかになるくらい温かく、秋も同じです。目を引くほど明るくはありませんが、それでもずっと居たくなるほど穏やかです。
8月が来ても、あまり期待はしません。ただ、風を受け止めるほど軽やかで、花や草の香りを感じられるほど穏やかで、今を生きる日々を手放さないほど優しくいられることを願っています。できれば、秋は少しペースを落として、一枚一枚の葉が美しく、風がそれぞれの音色を奏で、毎朝目覚めるたびに、秋の空に生きていることに感謝できるように。
ハリン
出典: https://baodongnai.com.vn/van-hoa/chao-nhe-yeu-thuong/202507/chao-thang-tam-chao-nhung-ngay-chom-thu-c2a1c3f/
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